⑥弓と禅の一考察(熟した果実)
7【有心と無心】p84〜96
今だに修行は、
「弓を引き、一杯に引き絞って満を持し、(無心で)射放すこと」でした。
何年修行を続けても、引き絞ると腕は震え、有心で放してしまう。
ヘリゲルは焦りを隠せず、その師である阿波研造氏に言ったのです。
「いったい私がどうして自分を忘れ、放れを待つことができましょうか。」
修行4年目のある日のことでした。
いちいち尋ねずに黙々と言われたことをやる。
理屈っぽいヘリゲルには苦痛の毎日でした。
しかし、その修行を続けていくうちに、心にある変化が生まれます。
一歩も前進しないこと、奥義を見いだそうが出すまいが、そのこと自体に関心がなくなったのです。
ヘリゲルはその日その日をごく当たり前に過ごし、与えられた職務をただ果たす中で、ついに長年の苦労の見返りすら求めなくなりました。
そして、その日が来ました。
ヘリゲルの一射に、師範が叫んだのです。
「今し方、それが射ましたぞ‼︎」
「自己を忘れ、無心になって一杯に引き絞ぼり、満を持し、その射は熟した果実のようにあなたから落ちたのです。さあ、何もなかったように稽古を続けなさい。」
(「弓と禅」p94)
なんと示唆に富む話でしょうか。
具体的な指示が功を奏すことは稀にあるとは思いますが、武道においては(あえて武道と言いますが)、「出来たこと」について、そのプロセスは回顧的です。
出来るために考えず、動きは形(かた)に押し込み、ひたすら稽古する中で、出来たことを振り返る。
「ほら、今の打ち良かったぞ。」
何が良かったのか、出来た感覚を思い出し、学んでいきます。
実戦で使える「良い動き(技術、感覚)」というものは、
言葉を超えています。
言葉で表現できないような動きの習得を目指すとき、
言葉で表現できることをいくら実践したとしても、無限の可能性を有限にしてしまいます。
有限の言葉に執着せず、師を信頼し、言われたことをひたすらやっていくことが修行というものなのかもしれません。
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