⑦弓と禅の一考察(暗中の的)

8【暗中の的】p96〜110

真の的が自己の内面にあることは理解できた。
しかし、内面と外面がなぜ一致するのか。
つまり射手が狙わないのに、なぜ的を射抜くことができるのか。それが不可解でならない。

このことについて、
師範はヘリゲルを暗闇の道場に招き、
その答えを範で示します。

的が見えない状況下、
甲矢で的の中心を射抜き、
乙矢で、甲矢の軸を裂き割ったのです。

ヘリゲルは二本の矢を別々に引き抜くに忍びなく、的ごと持ち帰ったといいます。

近年、スポーツは科学的理論のもと、合理的に実践されるようになりました。
それぞれの身体的.精神的特性を踏まえた上でトレーニングが行われます。
例えば、速く走りたいという欲求に対して、
個に適したトレーニング方法が示されます。達成するか否かは別として、
自己ベストという目的地に最も近い地図を誰もが簡単に手にすることができる時代になりました。

このような時代に、武道はどのように稽古を行なっているのか。

その修行過程に近道はありません。
地図などなく、科学的な分析もありません。
試合中の戦術すらないのです。
あえて遠回りさせたり、
苦労や挫折を"自ら"乗り越えることが大切に思われています。

試合では、
日々の稽古で身に付いたことが"自然に"発揮されることが大切で、
特に剣道の場合、監督は畳に正座し、弟子に一番近い場所でその戦いを静かに見守ります。声をかけてはいけないのです。



ヘリゲルは西洋哲学者です。

そして、弓道や剣道における修行の根にも哲学があるように思います。
しかし、この哲学は東洋哲学であり、
その根本は修行者の内面にあります。

つまり、理論の西洋哲学者が、東洋の神秘に触れ、弓の修行を重ねる中で、自己と向き合い、苦しみの中で一つの真理を見出していく"生きた"言葉が、著書「弓と禅」に記されているのです。


無心の境地に達したヘリゲルの言葉を最後に引用します。

「私は、もはや全く何も理解していないように思います。  ー中略ー  弓を引くのは私でしょうか、それとも私を一杯に引き絞るのが弓でしょうか。的にあてるのは私でしょうか、それとも的が私にあたるのでしょうか。  ー中略ー  弓と矢と的と私が互いに内面的に絡み合っているので、もはや私はこれを分離することができません。のみならず、これを分離しようとする要求すら消え去ってしまいました。というのは私が弓を手にとって射るや否や、一切があまりに明瞭で一義的であり、滑稽なほど単純になるのですから…」
(「弓と禅」p109)


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