二人の自分

試合中も練習中も、ひっきりなしに自分に対して命令し、励まし、叱咤するもう一人の自分がいることに、あなたは気づいているだろうか。
「おい、しっかりしろよトム、体の前でボールを捉えなきゃだめじゃないか。」
いったい誰が、誰に対して話しかけているのだろうか。ほとんどのプレーヤーが、コート上で自分自身に語りかけている。「ボールに立ち向かえ」「ヤツのバックハンド側を狙え」「ボールから目を離すな」「ヒザを曲げるんだ」こうした命令は、際限なく続く。そしてショットの後には次のような言葉が、ストロボのように瞬時に頭の中にあふれ出す。
「この不細工な、○○が、おまえのばあさんだって、もう少しましに打てるだろうさ。」
そうした観察を続けながら、ある日ふと「待てよ、これは誰が誰に語りかけているのだろう」という、単純素朴な疑問に行き当たった。(「新インナーゲーム」W・T・ガルウェイ 著 / 後藤新弥 訳・構成)

自我が無我に語りかけているのです。最高のパフォーマンスを発揮するには、やかましい自我を排除し、無我の境地に達する必要があります。自身のパフォーマンスを下げる原因は敵の存在で、その敵を無くすために「私」を無くすという理屈です。私を無くすこと・・・『猫の妙術』で形容詞を持たない猫として、また『名人伝』では、木偶の如く愚者の如き容貌になった紀昌を以前紹介しました。その他にも、名横綱双葉山が座右の銘とした“木鶏”を記した『荘子』、柳生宗矩は『兵法家伝書』において“木でつくりたる道幸の坊が曲するごとく”・・・、その師沢庵は『不動智神妙録』で“山田のかかし”と表現しています。

無我の状態を意図的につくるのは極めて困難であると思いますが、『新インナーゲーム』には具体的なその方法が示されています。

①判断をしない
②イメージを与える
③自然に発生させる

自分の剣道を裁判にかけ、避難してはいけません。今の習慣を、良い悪いと判断せずに、楽な気持ちで観察することが大事です。“できた”“できなかった“という結果重視の考え方は、体に本来備わっている柔軟な対応力を奪います。例えば、「素振り」という基本稽古がありますが、実践で同じような体の使い方ができる場面は恐らくありません。相手の剣先の高さや距離、打突のスピードや強さ、突然の変化など、頭で考えている隙など無い状況が連続で続き、そのような不確実な状況下で、姿勢を崩しながら、または防御に転じながら咄嗟の感覚で打突に向かうわけです。このような時に、直さなければならないことがいくつもあり、それを結果主義で判断していては一向に進歩しません。「クソ。何でこんなことぐらい出来ないんだ。」と、物事の最初と終わりのみに執着するのではなく、「まだ左手が突っ張ってるな。左足はどうだろうか。」と、自分の体がどのように動いているのかをよく観察することが大切なのです。体のこの部分をこのように動かして、同時にあそこは・・・などと、体のあちらこちらに命令を出しながら一連の動きを完成させるのではないのです。

では、どのように動きを修正するのか。
直したいところがあっても直そうとしないことです。
一見矛盾しているようですが、判断することなく観察を続けるだけで変化が起こるかもしれません。そして、直したいところを“自分”が“自身”に(2人の自分:①命令者たる自分②実行者たる自身)命令するのではなく、「望むフォームを具体的に、克明に視覚イメージする」のです。そして、そのイメージラインに沿って体や竹刀を動かす。一連の動作がどうだったか判断せずに感じることで、修正されていきます。この筋肉をこの方向にこれくらいの力で動かし…など巧妙な身体活動を実行するのは“自身”です。命令者たる“自分”に出る幕はありません。自然な動きが出来上がるまで“自身”を信頼し、言葉ではなくイメージで望む結果を伝えるのです。

「イメージは言葉に勝り、示すことは教えることに勝り、教えすぎは教えないことに劣る。」

命令者たる自分(自我)をどこかに置き、実行者たる自分(無我)が主となり剣道を実践したいわけですが、なかなか上手くいきません。ただ、奇跡的な勝利、芸術的な一本を決めた方々が口を揃えて言うのが、「無我夢中」や「無心」という言葉です。実際、私のような凡人でもそのような気持ちになり、勝たなくとも自分なりに納得の試合や稽古が出来ることがあります。しかし、常には出来ません。そのような無我の境地を意図的につくりたいと自我が動き出すからです。そして何より、私たちは、「自分(自我)が頑張る剣道が好き」なのです。体に力を入れて、歯を食いしばり、基本や打突の機会よりもスピードや体力を重視し、一生懸命自分に命令し、勝った時には、エゴが十分に報われます。自分が頑張って結果を出したのだと認識しやすいのです。体がリラックスし無我が主役の剣道は、何か物足りなく感じるのかもしれません。

無我が主役の状態をつくるために(6/7追記)

試合中に声をかけるナンバーワンの言葉が「集中!」ですが、どのように集中すればよいのかを知らない人が多いと思います。私たちの「心」は、これまでのことやこれからのことを考えた瞬間から乱れます。言い方を変えれば自我が活発になります。1本追われる大将戦で、残り時間や勝った後のことを考え始めると、自我が悪さをします。このような状態に陥ると手と足と心がバラバラになり、立っていることすら出来ないくらいパニックに陥ることもあります。
「新インナーゲーム」著者 W.Tガルウェイ氏は、無意識に続く呼吸の原始的なリズムに意識を向けることで、無我が主役の状態に近づくと言っています。
また、これまでのことやこれからのことを考えないように、この前後を切断することも有効だと考えます。このことを「悟り」といいます。なぜ勝ちたいのか、勝つことに意味があるのか、勝っても月日が経てば元通りの生活に戻るし、あれだけ熱狂的に応援してくれた人たちもいずれは離れていくでしょう。勝者が人格が上で、敗者が下ではありません。試合の相手は、私たちに乗り越えるべき課題を与えてくれているのです。勝った選手の涙も、負けた選手の涙も美しい。決して非競争者がいいというわけではありませんが、このようなことを考えながら目の前の壁を越えることだけに集中し、今になりきるのです。


青春モノクローム。

by Ameba Ownd

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